◆視聴して
映画を視聴してみて、なかなか良く出来ているなと思った。
最も良かった点は、大量のウマ娘をカメオ的な出演で押さえておき、出番のほぼ全てをジャングルポケット世代に集中させたことだ。
今までのウマ娘のアニメを見ていると、群像劇っぽいというか、史実のアレを再現したいコレも再現したいこのネタも入れておきたいという欲が勝って、とっちらかりぎみな構成になっていたと感じていたので今回もそうなると思っていたのだが、杞憂だった。
今回の映画ではわりと不要なシーンというのがなく、ジャングルポケットというウマ娘のストーリーとしてきっちりまとまっていた。
カットするべき史実もきっちりカットできていた。テイエムオペラオーはジャングルポケットに負ける前に、メイショウドトウとアグネスデジタルとトーホウドリームに敗北しているのだが、テイエムオペラオーをラスボスに据えるのであればその場面は邪魔になる。
どうするのかと楽しみにしていたら、なんと全部カットしてきた。そうするのが一番いいとは思っていたが、ホントにそうしてくるとは思ってなかった。嬉しい誤算。
ジャングルポケット世代以外のウマ娘も出番こそ一瞬だが元気に動き回り、かわいい。
ジャングルポケットというウマ娘の成長物語として綺麗にまとまっており、他のウマ娘のファンも自分の押しがどこにいるか探す楽しみがあり、作画も綺麗なところは綺麗で力強いところは力強い。
よく綺麗にまとまっているというところで、点数を付けるなら70点くらいである。
問題点はといえば、なまじよく出来ているぶん余計に構成のあと一歩が気にかかることにある。
そのあと一歩とはほかでもない。構成がジャングルポケット世代に集中しすぎていることだ。
◆倒すべき最強の敵とは誰だったのか
ジャングルポケットにとって倒すべき敵、最強のライバル、ラスボス。物語を締めくくるのに相応しい宿敵とはだれか。
最終レースの対戦相手という意味合いにおいてはオペラオーだ。最強王者、年間無敗、G1勝利数7勝の現役最強ウマ娘テイエムオペラオーをおいて、相応しいウマ娘は存在しない。
しかし物語上では全く違う。ジャングルポケットが倒すべき最後の敵はテイエムオペラオーでもアグネスタキオンでもダンツフレームでもない。
ジャングルポケットが倒すべき最後の敵はほかでもないジャングルポケット自身である。
ジャングルポケットの目標は映画の中で2回切り替わる。
最初の目標は最強になることである。この目標は2度にわたりアグネスタキオンに敗北し、雪辱の機会も失われたことで不可能になる。他の人間がどういおうが、アグネスタキオンとの問答の中でジャングルポケット自身がそのことを自覚している。
アグネスタキオンに負けた。そしてもう戦えない。この状態で最強を名乗れるだろうか?
目標を喪失したジャングルポケットには新たな目標がフジキセキから与えられる。
「トレーナーが望み、自分がかなえられなかったダービーウマ娘になってほしい」というものである。
しかしこの目標はジャングルポケットが主体的に獲得したものではない。あくまで外部から与えられた目標である。
それが達成されたとき残るものは何か。アグネスタキオン不在のダービーで勝利したという事実である。
ダービーに勝ったところでアグネスタキオンに勝ったわけではない。アグネスタキオンの2着がジャングルポケットにとって自身が到達できる最高ラインになってしまった。本人が自分でそこに壁を作ってしまったのである。
この時点でジャングルポケットの目標は内在する自身で定めた限界を打破すること=壁を越えることに変化する。
ジャングルポケット自身は自覚的ではないが、フジキセキをはじめとした周囲のフォローアップはキャラクター目線においてもジャングルポケットが自身で作ってしまった壁を越えるよう意図して行われており、シナリオ全体の流れとしてそのようになっている。
つまり最後のレースの相手はテイエムオペラオーであるが、最後の敵はテイエムオペラオーではない。それが鑑賞する上での大きな違和感を生んでいるのだ。
◆なぜジャングルポケットはテイエムオペラオーと戦わねばならないのか
自身の壁を打ち破るということに主眼を置くならば、最後に走る相手はテイエムオペラオーでなくとも成立する。ナリタトップロードでもマンハッタンカフェでもシンボリクリスエスでもいいのである。
究極的には自身の壁を打破するためには勝利の必要性すらない。例えば劇中後半においてフジキセキは勝利に寄らずともそれを達成したように見える。
つまるところ、シナリオ上でテイエムオペラオーと戦わねばならない必然性がどこにもないのである。
自身の壁を打ち破る最終レースの相手としてテイエムオペラオーを配置するならば、ジャングルポケットとテイエムオペラオーの間に因縁が必要になってくる。
因縁とはつまり、ジャングルポケット自身がテイエムオペラオーと戦わねばならない理由であり、 「自身の壁とテイエムオペラオーを同一視する」 なにかでなくてはならない。
「自身の壁を打破する=テイエムオペラオーを打破する 」という流れが生じて初めてテイエムオペラオーが最後のレース相手となることに必然性が生じるのである。
ジャングルポケットが作り上げた壁が「アグネスタキオン以上にはなれないのではないか」だったとした場合、アグネスタキオンが不在の状況でこの壁を打破する方法は一つしかない。
そう、アグネスタキオン以上に強いウマ娘に勝てばいいのである。それも生半可な相手ではない。自身だけではなく誰もが認める最強中の最強が相手である必要がある。
誰もが認める最強中の最強、15人のウマ娘全員でかかっても倒せない16人目。テイエムオペラオー。
問題は劇中においてジャングルポケットがそのように認識していない(少なくとも演出上はそう見えなかった)ことが最大の問題である。
ジャパンカップ時点においてジャングルポケットにとっては「ジャパンカップに出走してくるすげー強いウマ娘」でしかない。「アグネスタキオンという壁を打ち破るためにどうしても倒さねばならない最強のウマ娘」ではないのである。
というより、描写だけから見ればジャングルポケットはジャパンカップ前時点ですでに自身の壁を打ち破れているようにも見える。アグネスタキオンを気遣い併走に誘う態度は、ターフから去ることを宣言したアグネスタキオンに食ってかかった序盤とはまるで別物である。この時点において、ジャングルポケットにとって、もはやアグネスタキオンは倒すべき敵ではなく、傷ついたひとりの友人である。
もはや決して超えられない自分自身の壁として捉えてはいないのではないか。そう思わせるような演出ですらあった。
構成をジャングルポケット世代に集中させすぎた弊害がここで出ている。
ジャングルポケット世代に描写が集中し、フジキセキを除く同世代以外との絡みがほとんどないため「打ち破るべき自身の壁」と「テイエムオペラオー」をシナリオ上で同一視させることに失敗したのである。
たった一言でいいから「テイエムオペラオーを倒せば自分の限界を超えられる気がする」等のセリフがあれば。そう思わずにはいられない。
もっと悪い可能性としては失敗ではなく最初からそのようなことは想定されておらず、ウマ娘というコンテンツである以上はレースをクライマックスに持ってくる必要があり、ジャングルポケットの史実の勝利レースはダービー以降このジャパンカップしかなかったからという消去法でシナリオが構成されたのではないかというものがあるが、さすがにそれは考えたくない。
◆ではどうすればよかったのか
ジャングルポケット自身に以下の3点を認識させるシーンがあればよかった。
1:テイエムオペラオーはアグネスタキオンよりも強いのではないか
2:テイエムオペラオーを打倒すれば「最強」を名乗ってもいいのではないか
3:テイエムオペラオーはオレが倒すべき目標である
1に関しては序盤にオペラオー包囲網のシーンがあることで強さを認識させてはいる。しかし、このときの描写を見るにジャングルポケットはテイエムオペラオーを自分が戦う相手として捉えた上で強いと認識しているわけではない。
テレビの前の一般人が「大谷投手はすごい強いね」と言っているようなものである。同じ文言でも、メジャーリーガーが「大谷投手はすごい強いね」というのとは全くニュアンスが違う。なんて強いんだ、こいつをどう攻略しようというような意味合いではない。目線が競技者ではなく観戦者ということである。
同じターフの上で1着を競う相手としてその強さを認識され、その上で自分が倒すべき相手だとジャングルポケットに意識されて、初めてテイエムオペラオーはラスボスの資格を得られるはずだ。
テイエムオペラオーの強さを競技者として認識する1分程度のシーンと、テイエムオペラオーを倒すべき目標として認識する1分程度のシーン。合計2分を捻出するだけで、この問題は解決したはずだ。ジャングルポケットを軟体動物にしたり、アドマイヤベガに布団レビューさせる時間があるなら、その分オペラオーに尺をさくべきだった。
◆ナリタトップロードについて
その点で考えるとナリタトップロードの扱いは実におしい。
ナリタトップロードはジャングルポケットの同室ではあるが、同時にはるか格上の存在でもある。そのことは劇中のトレーナー同士の会話でも語られる。
ナリタトップロードとは2回走るべきではなかったか。
1回目の併走でその強さを認識し、2回目の併走でそんな強い相手に実力が近づいていることを実感する。
その強いナリタトップロードが何回挑んでも勝つことの出来ないテイエムオペラオー。ナリタトップロード相手にいいところまではいけた。では、そんなナリタトップロードを軽くあしらう相手を一体どう倒せばいいんだ?
そんなシーンがあれば、テイエムオペラオーはテレビの向こうの強いウマ娘ではなく、いまだ追いつけずいつか追いつくべき強大な目標として、アグネスタキオンを超える最終目標として意識されたのではないか。
ナリタトップロードを通してテイエムオペラオーを意識できたのではないか。
ナリタトップロードファンにとっては決して面白い展開ではないだろうが、そう思えてならない。
◆新時代の扉について
ところで、「新時代の扉」とは一体何だったのだろうか。一応この映画のメインタイトルになっている以上、それなりに重要なテーマのハズだ。じつは、先ほどのオペラオー問題はここにも影響を与える。
「新時代の扉」とはおそらくだが、次のどちらかである。
1:テイエムオペラオー時代の終焉
2:ダービーのこと(史実実況:新時代の扉をこじ開けたのは内国産馬ジャングルポケット!」)
1の場合は、最終レースの相手がオペラオーであることとの整合性が取れる。ただし、前述のオペラオーに関する問題はそのまま残るし、劇中でオペラオー時代を打破せねばならないというような描写もないので、今ひとつ感慨がわかない。そもそも史実ではアグネスデジタルが先に成し遂げている。
その扉が開いたからなんだというのだ?
2の場合はさらに問題である。ダービーをもって「新時代の扉」とするならば、メインタイトル上で指定されたテーマは映画中盤で完了してしまう。
ダービー以降は「新時代の扉」というテーマだけで見れば全部蛇足である。そういうことになってしまう。
ダービーこそが「新時代の扉」であるならクライマックスのレースはダービーであるべきだし、ラスボスはテイエムオペラオーではなくダンツフレームであるべきなのだ。
ダービーがクライマックスでラスボスがダンツフレーム。ジャングルポケットは皐月賞後に自身の壁を打ち破るためにダービーに挑むことを決意し、立ちふさがるのは同期ダンツフレーム。この流れでも本編と似たようなシナリオにはなったろうし、同世代に視点を集中させるという意味ではむしろこちらのほうがバランスが良かったのではないか。
「新時代の扉」がテイエムオペラオー時代の終焉であるならば描写が足りてないし、ダービーのことであればラストレースと相手を間違えている。どっちであっても歯切れの悪い部分が残ってしまうのが、なんだかなあという感想である
◆アグネスタキオンについて
今回の映画での個人的推しはアグネスタキオンで、一番かわいかったのもアグネスタキオンだと思っているのだが、それだけにちょっと納得がいかないことがある。
皐月賞あとのアグネスタキオンがやっていたことは何か?
自分が去ったターフを駆け抜ける同期をうらやましそうに画面越しに見つめているだけである。
自分が走る「プランA」に対して、アドバイザーとして他のウマ娘に干渉する「プランB」だったはずだ。データて分析や提供などをするのではなく、1回全力で走ったら引退してただうらやましそうに画面を見つめることがプランB だったとでもいうのだろうか。
もっと積極的にほかのウマ娘に干渉して勝たせてこそ、最後のやはり自分がという部分が引き立つのではないか。
まあ、散らかっていく部屋にひとり閉じこもり病んでゆくタキオンはそれはそれでかわいかったから、見る側としては問題なかったのだが。
皐月賞までの走るタキオンがすごくかっこよかっただけに、実に惜しいというかその落差に暗い喜びを覚えるというか・・・。
しかし個人的にはやはりプランBを実行しきってなお満たされずに走り出すタキオンが見たかった。
◆駄作か佳作か傑作か
以上を踏まえて 劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』は、佳作の域にいる映画だと考えている。
基本的にはよくできているし、見てて楽しかったし、ウマ娘かわいいし。
そもそもよくない点が気になるってこうして文章を書かいてしまうということは、できのいい映画の証拠ともいえる。つまらん映画に感想文を書く労力など、払いたくもないのだから。
少なくともこれからのウマ娘の展開に期待が持てる出来ではあった。次も観たい。次にスクリーンで走るウマ娘は誰だ?そう思うくらいには。
個人的には、カワカミプリンセスだと嬉しいのだが。
◆<追記>ジャングルポケットのアプリ実装を見て
さて、映画が公開してから少ししてジャングルポケットがアプリに実装された。
ガチャした。引いた。シナリオはとても良かった。シナリオ構成のみに着目すると映画よりずっとよかった。
まず、上述したオペラオー問題が綺麗さっぱり解消している。オペラオーはシナリオの内2年目(ちょうど映画の範囲に相当する)のボスとして登場するのだが、映画と違うところが3つある。
映画の流れは「最強」という夢が破れ目標を失ったジャングルポケットが自分の壁を打ち破る≓限界を超えるというものだったのに対し、アプリの流れはターフを去って行く仲間たちの想いを抱えながら、自身も故障を抱えながら「最強」を目指してゆくというものだ。
そのため、ジャングルポケットは自身の内在する壁を映画のように作ることはなかった。
そしてオペラオーを倒すべき相手と認識し、「最強」になるために自ら挑みかかる。
戦うべき相手と戦う相手が一致しているだけで、映画で感じていた違和感が9割方解消された。
アプリシナリオに感じた不満も、アプリシナリオゆえのシナリオ制限と絶対的な文章量の不足で、ようするにもっとジャングルポケットとその周辺のストーリーを見たいという、じつにプラス方向の不満点だった。
映画には映画の制限がある。人気キャラはストーリーにあまり絡まずとも出さねばならないだろう。アプリでウケるシナリオと映画でウケるシナリオは違うだろう。キャラの扱い方も当然違う。製作体制も異なれば、シナリオライターも違うだろう。だが、あえて声を大にして叫びたい。
アプリでこのシナリオ構成が組めるなら!それができるんなら!!最初から映画でやってくれ!!!
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