◆はじめに
シン・ウルトラマンを見終えた時、言いようのない違和感を覚えた。映画を見ている気がしなかった。
途轍もなくよくできたファンムービー、昔のニコニコ動画でいうMADを見ていた気分だった。
観たことに後悔はない。普通に面白かったと思う。映像の出来もよかった。
だが、「傑作映画」・・・いや、「佳作映画」にすらシン・ウルトラマンをカテゴライズすることはためらわれた。
いい作品だ、すばらしい。しかし・・・、映画としての出来がいいとは言いたくない。
私の「傑作映画」のボーダーラインは低いほうだと思う。系統の近い映画でいけば「シン・ゴジラ」や「パシフィック・リム」は個人的傑作映画の中に燦然とカテゴライズされている。それに対して、シン・ウルトラマンはともすれば駄作のカテゴリに放り込みそうにもなってしまう。
シン・ウルトラマンのどこがいいと感じ、どこがダメと私は感じたのだろうか?
今回はその点について整理し、考えてみたい。
◆シン・ウルトラマンの「ここがすごいぞ」
1:デザイン
序盤のチョイ見せ怪獣から、ザラブ、メフィラスそして天体制圧用最終兵器ゼットン。
そのどれもが魅力的なデザインで、美しく、かっこよかった。特にザラブはどうあがいても昔の特撮では実現できなかっただろう。
2:映像技術
近年の映像技術の進歩は目覚ましい。映画を観終わった後、旧ウルトラマンのゼットン戦を見たが、スピード感や八つ裂き光輪のエフェクト系の美しさがまるで違う。現代のウルトラマンは、派手に、スマートに、素早く美しく動く。
3:溢れる原作へのリスペクト
たとえば、ウルトラマンの胸にカラータイマーがついていない。これだけで、わかる奴にはわかる。ウルトラマンのデザイナーがロボットめいたカラータイマーを嫌っていたというのは、界隈ではそれなりに浸透している話だ。
かつての特撮で作りきれなかったデザインを、いまここに。その意思をひしひしと感じた。
4:メフィラス
個人的に今作のMVPをあげたいほど、うさんくささ満点のメフィラス星人。
あのあやしい演技は、俳優・山村さんの演技力のたまものでしょう。名演技、私の好きな言葉です。
◆シン・ウルトラマンの「ここが駄目だぞ」
1:シナリオ構成
この映画には、原作でいうところの4つのエピソードが詰め込まれている。ベムラー・ザラブ・メフィラス・ゼットン。この四つ。それぞれが違うストーリーラインを抱えている名エピソードだ。むろん、これらの話の間に一切のストーリー的つながりはない。せいぜいメフィラスといっしょにザラブが出てくるくらいである。
そして、原作においてこれらのストーリーの間には多くの別のストーリーが挿入されている。その中で、キャラクターたちは徐々に命を与えられ、いわゆる「キャラが立つ」状態へとなっていった。
逆説的に言えば、ウルトラマンが全39話をかけて説明してきたキャラクターの価値観や造形を、相互に繋がりのないストーリーを持つ、4話分で説明しなければならないのだ。
はっきり言うと、4話分のイベントを映画の中に詰め込むのに精いっぱいで、そのために様々な弊害がでている、そう感じる。
2:ウルトラマンのキャラが非常に弱い
ウルトラマンとは何者か。今作におけるウルトラマンとは、光の星の住人・リピアと地球原生生物・神永の融合体である。ウルトラマンはこの二名の要素を併せ持つ。じゃ、彼らは何者なのか。
リピア。そもそも彼は何しに地球に来たのか。なぜ地球人を好きになったのか。なぜ地球人に興味を抱いたのか(群れをつくらない個人主義の種族だから?自己犠牲精神がないから?彼らの文明レベルやゾーフィーを見る限りとてもそうは思えない)。何が好きで、何が嫌いなのか。
神永はリピアに輪をかけてわからない。正義感は強そうだが、映画の中での行動はほぼリピアの意志によるものと見えてしまうため、彼自身の価値基準が全くわからない。神永は普通の人類であり、その意識が強く残っているならば「群れとは」などといった序盤の会話は出てこないだろう。
ようするに、ウルトラマンがどういう存在かはまるでわからないのであり、それにもかかわらず特に違和感なく映画が見られるのは「ウルトラマン」という「正義のヒーロー像」が見る人間の間に広く浸透しているからにすぎない。
何が問題かというと、上記がわからないと「ウルトラマンは人類のためになぜそこまでしてくれるのか」という答えが出てこない。
要するに、今回のウルトラマンは全39話を費やして人類及び視聴者との絆を培ったウルトラマンではないのである。
気高いはずのウルトラマンの自己犠牲精神が、実に薄く感じられてしまう。
ウルトラマン、きみはいつのまに人類を好きになったんだい?きみの仲間はあまり活躍していないし、メフィラスの誘惑をはねのけた子供はどこにもいないぞ?
3:浅見のキャラ造形は濃いが、シナリオに生きていない。キャラが浮いている。
浅見は神永=リピア=ウルトラマンのバディであり、いわゆるヒロインに近い立ち位置である。それを主張するかのような強気のキャラ造形と、バディ主張を劇中でアピールしてくる。しかし、劇中の方向性はどちらかというと「バディ」よりは「群れ=仲間」のほうが優先されている節があるし、バディというほど精神的にも物理的にも一緒に行動していない。良くも悪くも独立独歩である。
彼女の劇中での役割がウルトラマンのバディであること+最後の最後で「おかえりなさい」を言うことであることを考えると、そのキャラ造形はもう少し「芯の強い大和撫子」に寄せたほうが良かったのではないか。本編の彼女の性格はどう考えても「おかえりなさい」を言うために待つより、自分から迎えに行くタイプである。ゼットンを倒して異空間へ消えたウルトラマンを探しに行ってくれたほうが性格的に納得はいったと思うし、人類の自立性のアピールにもなったのではないか。
性格と劇中の行動の微妙なミスマッチが起きている気がしてならない。
4:無駄なセルフオマージュ要素が多い
具体的には、オープニングのシン・ゴジラのロゴであったり、赤坂補佐官等々のシン・ゴジラを強く意識した演出のことだ。
それはまあ、シン・ゴジラを見ている人間からすれば「オッ」とは思うし、嫌いではないが、演出面で考えるなら邪魔でしかないと感じる。シン・ウルトラマンを観に来たんだ。シン・ゴジラを見に来たわけじゃない。
どうせ出すならば、東京駅で凍結中のゴジラをウルトラマンやほかの外星人があっさり処理する程度のことはやるべきだった。シン・ゴジラであれだけ苦労させられたゴジラが、宇宙人の手にかかればあっさり片付く。人類が味わう無力感はいかほどになるだろうか。メフィラスもさぞかし喜ぶだろう。
序盤の「戦闘が終わった頃に出てきてお前どこ行っていたんだとなるハヤタのシーン」のオマージュも、お前は何をしていたんだとの言及もなく、さりとて神永とウルトラマンの相関性について考察するシーンもない。
皆が無言で神永を見つめるだけのあの場面は、ただ単に合流し損ねた神永に「そういえばこいついなかったな、要領悪いんじゃないのか」との思いを口に出せなかっただけのようなシーンに見えてしまう。
5:禍特対の活躍が弱い
序盤のダイジェストを除き、禍特対は一度も単独で怪獣を倒していない。正確に言うと倒しているシーンがない。見ている側からすると、こいつらの強さというか能力が今ひとつ見えてこないのだ。禍特対が強い怪獣を倒す→その禍特対が手も足も出ない外星人→無力感を感じる人類という作劇上およびメフィラス上で想定されている流れに今ひとつ説得力が出ないのだ。超兵器も出ないしね。
なお、これは禍特対メンバーの個々のキャラクターの薄さにも繋がってくる。特に田村キャップと船縁はほとんど何もしていないように見えるぞ。実際は指揮や生物分析で役立ってるんだろうけど。
いっそのことメフィラス戦を削ってでも、禍特対のみで勝利する対怪獣戦に時間を割り当てるべきだったのではないだろうか。いや、地球への愛着を示すメフィラス編を削っていいってことでは決して無いんだけど。でもやはり禍特対の活躍が序盤にないと、最後のウルトラマン依存からの脱却が引き立たないというか・・・。
6:構成と矛盾したキャラクター造形や行動
映画を時間内におさめ、つじつまが合うようにシナリオを構築するために、原作のキャラクター造形を弄るもしくは全くの新キャラに役割を代替させたり、今回のようにそもそも違う世界の話にしたりということはままあることであり、むしろ当然である。登場させる役者さんのマッチするキャラクター造形にすることもまたしかり。でも、シナリオの流れとキャラクター造形がマッチしないのは何だかなあと思ってしまう。先に例に挙げた浅見にしてもそう。個人的にちょっと気になった部分について、列記する。
まずはゾーフィー。一言で言うと、お前何しに来たんだ。宇宙の秩序に深刻な影響を与えかねないから地球人を消滅させに来たのだろう。それをリピアと地球人が頑張ったからって、あっさり翻意していいのか。というか、光の星はそれで納得するのか。ゼットンまで使っておいて。いや、そこまであっさり翻意するなら、せめて命をもう一つ持ってこい。そのどことなく残念な感じがゾフィーらしいと言えばそうなのかもしれないが。
次、リピア。最初こそ、超生物らしく群れの概念を理解していない個人主義者のように振る舞う(だからこそ、子供を身を挺して救った神永に興味を抱いて融合した)が、本当に理解していないのか。光の星および他外星人の文明レベルと知的レベル、および同族のゾーフィーの最後の振る舞いを見るに、群れや互助という概念を持っていないとは到底思えないぞ。自己犠牲精神は持っていなかったのかもしれないが。
最後、メフィラス。コレは実は別に問題なくて、ただ単にメフィラスがゾーフィーに恐れをなしてケツまくって逃げたように見えるのがもやっとくるだけである。ゾーフィーが来なくても攻撃やめてました?あなた。
外星人同士争ってもしょうが無いの意味合いが「文化的な我々は殺し合いという野蛮なことはよしておこうか」から「(あっ、やべー奴が来た)今日はこのくらいにしといてやるよ」へと180度変わるでしょうが。
まあ、今作におけるメフィラスはそういう奴だった、の一言で済む話ではあるが。
7:おかえりなさい
一見感動的ですよね、最後に浅見がおかえりなさいというシーンは。しかし、すこし考えてみよう。ウルトラマン=神永+リピア はこの時点において死亡している。なぜならば、融合元の片方であるリピアがゾーフィーにより分離され、おそらく消滅しているからである。
帰ってきたのは神永というひとりの勇敢な男であって、劇中において各人と絆を育んだウルトラマンではない。
君たちが愛したウルトラマンはもうどこにもいないんだよ、彼は帰ってきてなどいないんだ。
その観点で見ると、途端にこのシーンが気持ち悪い物に思えてくる。禍特対の四人は、一体何に対して喜んでいるんだ?もちろん、彼らはリピアが消滅を知るよしもないが、それがいっそうこのシーンの悪趣味さを際立たせる。
いや、仮に知っていたとしよう。戦友であるウルトラマンの片割れ、リピアが消えたのに感動的におかえりなさいなんて言えるか、普通。
まさか令和にテイルズオブジアビスのエンディングをウルトラマンを通して見ることになるとは思わなかった。アレも帰ってきてるの純粋なルークじゃないし、約一名を除いてそのことに気がついていない。
教えて欲しい、一体何を考えてこんな場面を作ったのか。
お願いだから帰ってきてくれウルトラマン。
◆よい点と悪い点のまとめ
ざっくりまとめてみると、下記のよいな点に集約される。
よい点
・デザイン
・戦闘演出
悪い点
・シナリオ
・キャラ造形
・オマージュ演出
ようするに、戦闘シーンはいいが他はダメという評価にまとまってしまうのだ。
◆さらに深掘りする
シナリオとキャラがダメだなと感じた場合、たいていの映画はつまらなく感じると思う。しかし、個人的にここまで酷評しておきながらなんだが、シン・ウルトラマンは面白かったのだ。
なぜかと考えるに、一つはそもそもウルトラマンについて多少の事前知識があり、ウルトラマンや登場人物はだいたいこういう奴であるかなと言うことを知っていたというのが大きい。
例えば神永=ハヤタであり、リピア=ウルトラマンであるように、そのキャラクターがどういった役柄なのか、補完がたやすい。シナリオにおいても、どうなるかを大まかには理解している(ゼットンにウルトラマンは敗北するが、人類の力でそれを退けるなど)。
過去の名作を現代の映像技術で見ているのに近い。HDリマスターとか。
加えて、個人的にポイントが高かったのはカラータイマーのないウルトラマンなど、原作デザイナーへのリスペクトが諸処に感じられるところだ。かつて技術的・商業的問題で実現できなかったデザインが、いまなら実現できる。そのことに感動しているのかもしれない。
ここまで書いていて、気がついたことがある。
私は、成田亨のデザインが好きだ。
そのデザインが現代技術で所狭しと暴れ回るのが面白かっただけではないのか?
翻って、私はシン・ウルトラマンを映画じゃなくてデザインのプレゼンか何かと認識してしまっているんじゃないか。ひいては制作者の意図も実はそちらよりにあるのではないか。
そう考えると、シナリオもキャラもイマイチと感じるのに、シン・ウルトラマンを面白いと感じた点に説明がつく。
◆シン・ウルトラマンの正体
成田亨というデザイナーを知るきっかけになったのは、大昔に富山県で行われた成田亨展だった。もちろん、ウルトラマン関連の作品はそれまでにも視聴していた。ウルトラマンと成田亨が紐付けられ、その世界観に圧倒されたのがその展示会だっただけのことだ。
そこでは、成田亨というデザイナーのデザイン・思想・歴史が紹介され、当時彼が不満に感じていたこと(もっともたる例がくだんのカラータイマーだ。)を知った。
かつての技術的限界や商業的・作劇上の理由から、ウルトラマンのデザインは完全に意図された形で世に出たわけではなかった。
カラータイマーはヒーローのピンチを演出するための後付けの小道具だったし、ウルトラマンの目にしつらえられたのぞき穴は、デザイン上は必要のないものだ(もちろん、無ければスーツアクターの身動きがとれないわけだから仕方が無いのだが)。
今作においては、より完全に近くなったデザインをひっさげてウルトラマンが画面一杯に暴れ回り、怪獣や星人も着ぐるみ造形という枠を離れて現代技術でデザインをブラッシュアップされて送り出された。
デザイン周りにおいては、一切の手抜きが感じられず、ただただ成田亨とその美しいデザインへの憧れと敬意が見えた。少なくとも私には。
監督がやりたかったことは、まさに現代技術で成田亨のデザインを動かす、その一点に集約されるのではないかと感じるほどに。
シナリオも、キャラクターも、演出もすべて”そえもの”。映画らしく見せかけるためのおまけにすぎない。本当にやりたかったのは、成田亨デザインのプレゼンテーションだ。彼の魅力的なデザインを銀幕の上で動かす、プロモーションビデオの一種としてこの映画を作ったのではないか。
スタッフロールにおける成田亨の位置こそが、何よりの証拠ではないのか。
この映画は、シン・ウルトラマンではなく、シン・成田亨展だったのではないか。
◆おわりに
シン・ウルトラマンの本質は成田亨デザインのプレゼンである。故に、そのデザインが好きな自分にとってはシナリオやキャラに多少の不満があろうと、それらを無視することができ、結果的に面白いと感じたのだろう。
まとめると、そういうことになる。
もちろんコレは個人の感想でしかない。本質も意図も、いやここに書いた全てが全くの的外れであるかもしれない。
しかし、銀幕から感じた成田亨への憧憬だけは、私の感じたままであると信じたい。
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